
区役所の土木課から世界へ、役所広司さんの意外な出発点
2023年、第76回カンヌ国際映画祭で男優賞に輝いた役所広司さん。日本人の受賞は柳楽優弥さん以来19年ぶりのことでした。ドラマ『VIVANT』のノゴーン・ベキ役で役所さんを知った方も多いと思います。
世界の舞台に立つ俳優ですが、役所さんは最初から俳優を目指していたわけではありません。高校を出て選んだ仕事は東京の区役所の土木工事課の職員でした。芝居の経験もありませんでした。
『Shall we ダンス?』の社交ダンスに夢中になる会社員、『PERFECT DAYS』の清掃員、大河ドラマの織田信長や嘉納治五郎。役所さんが演じてきた人は、時代も立場もばらばらです。
「役所」という少し変わった芸名は、この時代の仕事から来ています。区役所で働いていた青年が、どうして日本を代表する俳優になったのでしょうか。生まれた町から順番に、その歩みを見ていきます。
長崎県諫早市に生まれた、男5人兄弟の末っ子
役所広司さんは1956年1月1日、長崎県諫早市で生まれました。本名は橋本広司さんです。元日生まれで、男ばかり5人兄弟の末っ子でした。
役所さんは長崎県立大村工業高等学校へ進みます。卒業すると故郷を離れて上京し、東京都千代田区役所の土木工事課で働き始めました。工業高校を出て、区役所の土木の部署へ。当時の役所さんの進路は芝居の世界とは離れたところにありました。俳優を志すのは、東京で働き始めてからのことです。
故郷の諫早は、のちに役所さんの仕事ともつながります。1985年には諫早を舞台にしたテレビドラマ『親戚たち』で、楠木雲太郎役を演じて主演しました。若いころに離れた町を舞台にした作品で真ん中に立ったことになります。放送はフジテレビで、1985年7月から9月まででした。NHKの『宮本武蔵』で初めて主演を務めた翌年のことです。
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1本の舞台が進路を変えた、200倍の無名塾へ
転機は友人に連れられて出かけた観劇でした。演目は仲代達矢さんが主演する舞台『どん底』です。この舞台に感銘を受けた役所さんは、俳優の道を志すようになりました。友人に誘われて座った客席から、区役所で働く若者の道が変わり始めたことになります。
次に目指したのは、仲代さんが主宰する俳優養成所の無名塾でした。倍率は200倍という難関でしたが、役所さんは試験に合格し、2期生になります。
とはいえ、演技の経験はありません。無名塾では挨拶から指導を受けたといいます。区役所の職員から俳優の卵へ。役所さんは一番基本のところから学び直しました。
芸名をつけたのも仲代さんです。前の仕事が役所勤めだったことに加えて、役どころが広くなるようにとの願いをこめて「役所広司」と名づけました。名字に前職を残し、名前には役の幅の広がりを願う。のちの出演作の幅を思うと、この名前はよく当たっていたように感じます。本名の「広司」も、そのまま芸名に残りました。こうして区役所の職員だった橋本広司さんは、俳優の役所広司さんとして歩き始めます。
付き人兼移民Aから織田信長へ、下積みの日々
無名塾に入った役所さんは、はじめは塾の舞台公演に出演していました。テレビに初めて出たのは1979年の『アマゾンの歌』です。このときの立場は、仲代達矢さんの付き人兼「移民A」という役でした。
その後は少しずつ出番を増やしていきます。1980年のNHK大河ドラマ『獅子の時代』では村上泰治を演じ、同じ年には連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』にも出演しました。1981年の大河ドラマ『おんな太閤記』では織田信孝を演じています。映画でも『闇の狩人』の桑野の定八や、『鬼龍院花子の生涯』の近藤、『ひめゆりの塔』の大高見習士官など、さまざまな作品に顔を出しました。舞台では1981年の『毒の華』に立ち、同じ年のTBSのドラマ『二百三高地 愛は死にますか』では津野田是重を演じています。
注目を集めたのは1983年、大河ドラマ『徳川家康』の織田信長役です。翌1984年にはNHKの新大型時代劇『宮本武蔵』で武蔵を演じ、初めて主演を務めました。この作品でエランドール新人賞とテレビ大賞新人賞を受けています。テレビ初出演の「移民A」から、わずか5年ほどで主演にたどり着いたことになります。
『三匹が斬る!』から映画へ、役所広司さんが広げた役の幅
時代劇で人気を固めたのが、1987年に始まった『三匹が斬る!』シリーズです。役所さんは久慈慎之介、通称「千石」を演じ、シリーズは1995年の『痛快・三匹が斬る!』まで続きました。1993年からの『八丁堀捕物ばなし』では、主演の狩谷新八郎を演じています。1990年のテレビ東京のドラマ『燃えよ剣』では土方歳三を、1991年のTBSのドラマ『武田信玄』では武田信玄を演じました。1990年のテレビ朝日のドラマ『女王蜂』では金田一耕助も演じています。CMにも1987年のサントリー「オールド」などに出演しています。
同じころ、映画でも歩みを進めていました。1985年には伊丹十三さん監督の『タンポポ』に、白服の男役で出演します。1988年の日本・スイス合作映画『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』では関谷海軍中佐を演じ、映画で初めて主演を果たしました。
1990年の『オーロラの下で』で日本アカデミー賞の優秀主演男優賞を初めて獲得します。1995年には原田眞人さん監督の『KAMIKAZE TAXI』で、毎日映画コンクールの主演男優賞を受けました。時代劇の人気者という枠にとどまらず、作品ごとに違う顔を見せていく。仲代さんが名前にこめた願いのとおりの歩みです。
『Shall we ダンス?』の大ヒットと、主演男優賞の総ざらい
役所さんの名前を一気に広めたのが、1996年公開の主演映画『Shall we ダンス?』です。演じたのは、社交ダンスに魅了されていくごく平均的なサラリーマン、杉山正平でした。作品は大ヒットを記録します。
同じ年の『シャブ極道』と『眠る男』の演技も絶賛され、役所さんはその年度の主演男優賞を総ざらいしました。勢いは翌年も止まりません。1997年の主演作『失楽園』もその年の邦画として大ヒットとなります。今村昌平さん監督の『うなぎ』はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞しました。黒沢清さん監督の『CURE』では、役所さん自身が東京国際映画祭の男優賞を受けています。
2年続けて、20以上の国内の映画賞を獲得しました。日本アカデミー賞の優秀主演男優賞は、1996年から7年連続で受けています。青山真治さん監督の『EUREKA』は、カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞とエキュメニカル審査員賞を受賞しました。区役所で働いていた青年は、日本を代表する映画俳優の一人と呼ばれるようになります。この間も2000年の『どら平太』で望月小平太を演じて主演するなど、時代劇の仕事を続けていました。2004年の『笑の大学』では向坂睦夫を、2006年の『THE 有頂天ホテル』では主演の新堂平吉を演じています。
ハリウッドから『PERFECT DAYS』へ、世界が認めた役所広司さん
海外での仕事が本格的に始まったのは2005年です。『SAYURI』でハリウッドデビューを果たし、作品はアカデミー賞で3部門を受賞しました。続くアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥさん監督の『バベル』では、ブラッド・ピットさんと共演しています。役所さんは綿谷ヤスジロウを演じ、出演者の一人として全米映画俳優組合賞のキャスト賞にノミネートされました。
大きな節目が2023年の『PERFECT DAYS』です。ヴィム・ヴェンダースさんが監督した日独合作の映画で、役所さんは主演の平山を演じ、製作総指揮も務めました。平山は東京の渋谷で公共トイレの清掃員として働く男性です。
この役で役所さんは第76回カンヌ国際映画祭の男優賞を受けました。受賞後には日本の記者に「この賞に恥じないように頑張らなきゃ」と語っています。作品は第96回アカデミー賞の国際長編映画賞にもノミネートされました。同じ2023年にはNetflixの『THE DAYS』で吉田昌郎を演じて主演し、TBSの『VIVANT』にはノゴーン・ベキ役で出演しています。主人公の乃木憂助を演じたのは堺雅人さんです。『VIVANT』は2026年に第2シーズンの放送も始まりました。
声と語りの顔、そして2026年のNetflix主演へ
役所さんには顔を出さない仕事もあります。劇場アニメ『バケモノの子』では熊徹の声を担当し、『窓ぎわのトットちゃん』では小林先生の声を演じました。ドキュメンタリーの語りも多く、『日経スペシャル ガイアの夜明け』では案内人を、『Earth Walker』では地球の案内人を務めています。2009年には映画『ガマの油』で監督と原案も手がけました。
時代劇、現代劇、海外の作品、声の仕事と、活動の場所は広がり続けています。歴史上の人物を演じることも多く、2022年の『峠 最後のサムライ』では河井継之助を、2024年の『八犬伝』では滝沢馬琴を演じました。2011年の『聯合艦隊司令長官 山本五十六』の山本五十六、2015年の『日本のいちばん長い日』の阿南惟幾、2017年の『関ヶ原』の徳川家康も役所さんです。テレビでは2017年の『陸王』で主演の宮沢紘一を、2019年の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』で嘉納治五郎を演じました。
2026年10月22日には、Netflixのシリーズ『俺のこと、なんか言ってた?』の配信が始まりました。宮藤官九郎さんの脚本で、役所さんは主演の高瀬川玄を演じています。ロンドンの舞台で成功したあと、2年ぶりに帰国すると世間から忘れられていた、という役どころです。友人に誘われて座った客席から始まった役所さんの道は、これからもまた新しい役へと続いていきそうです。
写真: Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan / CC BY 2.0 (Wikimedia Commonsより)


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